完全に方向感覚を失いそうだ。 音は何も聞こえない。
いや、聞こえるのは、聞いた事も無いような鳥の声ごえ、虫の音、カエルの声、
よく耳を澄ませば、2キロぐらい向こうから現地の人が奏でる民族音楽が聞こえる。
そして後は、ザクザクという自分の足音のみ。周りには誰もいない。
しとしとと雨が降っている。
何百年も放置された石の遺跡は、余計ずっしりとした重みを増しているようだ。
今にも崩れそうな、この迷宮のような遺跡に迷い込んでから時間感覚は全くない。
ここはアンコール遺跡群の一つ「プリアカーン」。
入り口らしきところから入って以来、まるで鏡の中の世界に入ってしまったかのように、
石の彫刻でできた崩れかかった部屋から部屋へとへと、取り憑かれたように入っていく。
緻密な彫刻群というかこの建物自体、何万人もの偉大な彫刻家の頭の中にいるかのようだ。
ゆっくり、ゆっくり歩く。
ずっと直線に連なる部屋から部屋へ歩いていくと、やがて十字路に出た。
東西南北四方どちらを見ても、部屋が連なり、直線になっている。同じ風景。
出口はあるのだろうか?
十字路の真ん中には、大きな坪の中に何十本ものお香がたいてある。
もうどちらが入り口か曖昧になって来た。 気の向く方向に進もう。
またいで次の部屋に入るたびに、息をのむような美しさに立ち止まる。
崩れた遺跡の上に新しい植物がたくさん芽を出し、
しとしとと降る雨のせいで、植物の緑が激しい。 そうだ今、雨が降っているんだ。
カメラを濡らしてはいけない。 何度も我にかえってカメラを覆う。
永遠に続くかのように直線に連なったいくつもの部屋を超え、ついに出口に来た。
なんて広い遺跡だったんだろう。
後ろを振り返り、今まで彷徨っていた遺跡を外から見ると、てっぺんから
20〜30mはあるだろうと思われる高さの巨大な樹木が、四方八方へ根を伸ばしている。
まるで遺跡を飲み込んでいるようだ。 偉大なる自然の生命力。
よく見ると、何本もの木が絡まり大きな一つになっているところもある。
積み上げられた石で出来たこの迷宮は、何百年も放置され、
その間に、たくさんの植物の種が降り立った。
東南アジアの熱帯気候と雨が、植物をぐんぐん大きく育て、
植物は遺跡から地面へと栄養分を求めて広くへと根を伸ばし、木となった。
そして、かつて人間が石を積み上げてつくった建物を歪ませ、崩している。
植物の生命力が人間の積み上げた歴史を喰い、共存しようとしているかのようだ、
と考えると、これまた感慨深い気分になる。
遺跡と植物の共存、雨。
巨大な遺跡の中で、一人。
いつの間にかリエたちとはぐれてしまった。 周りには誰もいない。
巨大すぎるこの迷宮の中で、迷い、夜になってしまったらどうなるのだろう。
そしてやはり、聞こえるのは鳥の声、虫の音。
そこら中にクメールのそれ以上無いような平和な微笑みが彫刻されている。
穏やかすぎる風景。 穏やかすぎて恐い。 もう戻ろう。
来た道を戻り、先ほどの十字路が見えてくると、
十字路の僕とは違う方向から来た一人の欧米人が、青ざめながら尋ねてきた。
「出口が分からなくなった、どちらかわかるか?」
教えてやると、ありがたそうに礼を言って、去っていった。
彼もまた、この風景に取り込まれて、分からなくなってしまったのだろう。
夕日も落ち薄暗くなった出口では、リエたちが先に待っていた。
ここはアンコール遺跡群の一つ「プリアカーン」。
ここでは木が遺跡を取り込むように、
その美しすぎる風景は、人の心さえ取り込んでしまうのかもしれない。
アンコール遺跡群には、こんな遺跡が何十と存在する。
(リョウスケ)
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