ゲストBOOK

 

インド PART 2




 
 


「僕が初めてインドへ行った頃はねぇ、成田からインドへの飛行機の中、
ほぼバックパッカーだったんだから」
オジさんはバングラッシーをグビっと飲みながら言った。
ジャイサルメールは砂漠の中の城下町。
町の真ん中に建てられた城から町の建物に至る全てが砂の色をしていて、ラクダが歩く町。
町の周りは砂漠が広がる。

僕らはデリーからジャイプルを経て、インドのラジャスターンという地方へ入った。
ここジャイサルメールは、インド・ラジャスターン最西端の町。
むかしマハラジャと呼ばれる貴族たちが、自分たちの砦を砂漠の真ん中につくったのだ。
今のパキスタンとの交易が盛んだった頃は重要な拠点だったが、
印パ分裂後の今は最西端の孤島のような町。
インターネットカフェこそあるが、砂色の町をみていると
どこか中世のアラブの世界に来たみたいだ。

泊まっている宿の隣の部屋にいたオジさんに、町の中を散歩中にばったり出会った。
ここは小さな町。
しばらく町を一緒にまわった後、メシでも一緒に食うことになり、
城下町を城に向かって登って、城の中にあるレストランのひとつで落ちついた。
オジさんは52歳。
白髪の短髪で短いヒゲをたくわえ、大きな会社の重役にも見える。
というか僕のオヤジと似たような歳だ。
彼は昔ヒッピーで、1979年に初めてインドへ来て以来、もう五回目だという。
彼は続けた。
「みんなカルカッタやらデリーやらに着いて、そこからワッと散って行ったんだ。
だからどこに行っても日本人がいたんだよ。
でも今はめっきり少なくなっちゃったんだよなぁ...」
確かに僕らも、思ったよりも日本人はいないもんだなと感じていたが、
昔はそんなにもインドを旅してる日本人がいたのかとビックリした。
「たぶん君たちもインドに来て、ダマされたり、ハラをたてることも多かったと思うけど、
ハラを立てたりするより、インドだからしょうがないってあきらめて楽しんだ方がいいよ。
それがインドを旅するコツ。 だってさ、よく考えてごらん。
インド人がさ、きちっと仕事をこなして定価で物売ってたらツマんないよ。
なんの苦労もない。値段交渉したり、苦労して買うからきっとオモシロイんだと思わない?
あ、ボラれちゃった!とかさ」
僕がデリー〜アーグラ間の列車の中で現金を盗られてから
インド人不信になりかけているのが分かったのか、
オジさんはそんなことを言った。オジさんはさらに続ける。
「要はさ、僕らがインド人にハラを立てるのは僕らの常識を
インドに持ち込んでいるからだよ。
郷に入ったら郷に従えっていうだろ。僕らはこのインドという国にお邪魔しているんだ。
だからインドの常識に合わせるのが礼儀ってもんじゃない。
お金を盗るヤツは確かに悪いヤツだと思うけど、
授業料だと思ってあきらめて、二度と盗まれないように気をつければイイよ。
だからってインド人を全員悪いヤツだって決めつけるより、
思いっきしインドを楽しもうよ。
インドはこんなにも素晴らしい世界を用意してくれてるんだからさ!」
オジさんは本当にこんな口調で話す。

確かに一理あるな、と思った。
僕はお金を盗まれて以来、道ばたで話しかけてくるインド人ほとんどに
しかめっ面であたっていた。
また何か企んでると思えて仕方なかったのだ。うっとうしかった。
しかし、そんなんじゃインドの旅はオモしろくない。旅は自分次第でどんな表情も見せる。
オジさんは間違いなくイージーに考えながら旅をしている。
決して贅沢に旅しているワケではないが、
どんなことがあっても、どんなことでも楽しんで旅をしている感じだ。
インドではそれが大重要。たしかに最近、僕は忘れかけていたかもしれない。
インド人との対話をもっと楽しんでみようという気になってきた。
バナラシでの時のように。

「そうだ。君たちなんかに最もふさわしい宿を知ってるよ。
せっかくジャイサルメールまで来たんだから、
一度泊まってみたら?僕がガールフレンドと来てたら絶対に泊まるなぁ〜...
とりあえず見に行こうよ」
メシも食い終わり、オジさんも激プッシュするのでどんな宿かと見に行くことにした。
砂の色をした石で出来た城の中にはいくつか宿もあり、宿泊することができる。
しかし城の中の宿は基本的に宿泊費が高いので、僕らは初め見向きもしなかったのだ。
オジさんは、その中の一つの「SIMRA Guest House」というところに僕らを案内した。
入り口は今泊まっている宿とさほど変わらない。が、中に入るとちょっと違った雰囲気だ。
宿の人に言って部屋を見せてもらった時、僕らは二人して「あっ!」と声を上げた。

全て石で出来ている部屋にはゴージャスなカーテンがかかり、
小さな窓辺にはリラックスできるようにクッションが置かれている。
そこから下を見下ろすと、行き交う人々や昼間僕らがウロついていた路地やら店やらが、
ミニチュアのように小さく、夜の明かりでオレンジ色に輝くジャイサルメールの町が
向こうまでずっと広がって見えた。さらに向こうの砂漠まで見える。
空を見ると、今まさに僕らのいる城と夜空に浮かぶ三日月が、
これ以上ないくらいに似合って見えた。
まるでマハラジャにでもなった気分だ!リエも大感激している。これはスゴい部屋だ。
一泊の値段を聞くと、600ルピー。700ルピーから下げての値段。
僕らの今泊まっている宿は城下町の中の安宿のひとつでダブルで一泊150ルピー。
600ルピーは4日分、ちょっとした贅沢だ。
それでも感激した僕らは明日また来て、泊まってみることにした。
「これもインドの楽しみ方。
せっかく来たんだから、 たまにはこういうところに泊まらないと!
ロマンチックだと思うよ〜。
だってこんな砂漠の町で、しかもお城の中に泊まれるなんて日本では味わえないからね!
それも日本円にしたら、600ルピーは1500円くらいだよ」

この歳でこんな話を、イヤミやイヤらしさを全く感じさせず話すこのオジさんを、
僕はキライではなかった。
城を下り、城下町の僕らの宿へ向かいながらもオジさんの「インド論」は続いた。
この人は本当にインドが好きなんだなと思う。
少しばかり偏ってはいるが、
今になって「ああ、なるほどな」と気付かされることも多かった。

夜空にはきれいな三日月が輝いている。
後ろを振り返ると、今まで歩いていたお城がライトアップされてオレンジ色に輝いていた。
今日もジャイサルメールの夜は更けていく。
砂漠の町は夢の中へと入っていく。

(リョウスケ)




「I don't like Goa.(ゴアなんて好きじゃない)」
彼女は口をへの字に曲げて、しかめっ面で言った。意外な答えだった。
アクセサリーを売りにきた彼女はそのまま僕らの隣に座って、
岩場から極上の夕日をつまらなさそうに眺めている。

ゴアに来て3日経つ。
僕らはジャイサルメールからジョードプルを経て、ムンバイまで一気に移動した。
大都市ムンバイで次なる地への航空券を探し、ついに目当てのものを見つけたので、
20日の出発日まで、さらに南のゴアやハンピへ行くことにした。
20日まで有意義に動きたい。
ゴアは、70年代から80年代にヒッピーの大聖地としてその名が世界に知られた場所。
世界中から自由の地を求めたヒッピーたちがここに集まって、
どこまでも続く広いビーチで、毎夜のようにパーティが繰り広げられたという伝説の場所。
しかし、僕らはのんびりするために
比較的静かだというバガトール・ビーチを選んだせいか、
それでも思ったよりも静かなもんだなぁという印象を受けた。
ゴアに来れば音が聞こえて、ところかまわず人が踊っていると思っていたのだ。
でもそれはそれで、喧噪の嵐のようなインドの旅で疲れた僕らにはちょうど良く、
ゆる〜い風を毎日受けながら海岸できれいな石を探したり、
サイコーにのんびりとした3日間を過ごした。
明日、僕らはゴアからハンピへと移動する。
ゴア最後の日、今日もビーチで夕日でも見ようと岩場に座っていたら、
彼女がアクセサリーを売りにきたのだ。
「ひとつ50ルピー。いらな〜い?」
明らかに商売熱心な方ではない様子で、
どうでも良さそうに僕らの前にアクセサリーをブラブラさせる。
僕らが買う様子がないと分かると、ふうとため息をついて隣に座った。
彼女は僕らより少し年下ぐらいで、このすぐ近くに住んでいるという。
「昔はこのビーチでもパーティが多くて、たくさんの人が来ていた。
でももう最近は全然人がいない。
あ〜あ、たくさんの人がいるボンベイにでも行きたいな〜」
そんなようなことを彼女は言った。だからゴアなんてもう好きじゃないと言う。
ゴアでも一番にぎやかなアンジュナ・ビーチではたくさんの人がいて、
ウェンズデイ・フリーマーケットもある。
初めてゴアに来た僕らは、このバガトール・ビーチはチルアウト的な
静かなビーチなのだと勝手に理解していたが、
前はそうでもなかったらしい。廃れてしまったらしいのだ。
話によるとゴアの政府当局は近々、
ビーチなどでのパーティを全面的に禁止していく方針らしい。
そうすることで、ドラッグ目当てでゴアに集まる輩を 一掃してしまおう
というのが目的だという。
一大リゾートにするつもりなのであろう。
金のないヒッピーを相手にするよりも、その方が国にとっては利益が出るに違いない。
確かにカラングート・ビーチでは、
ドレッドのヒッピールックスなんかよりも太っちょの欧米人ばかりが目立った。
しかし、なんだかちょっぴし寂しい話である。
「じゃ、もう行くから」
夕日を見ながら少しばかりそんなような話をしたあと、彼女は去って行った。
向こうに欧米人カップルが見える。
ターゲットを変えたが、向こうでもいらないと首をふられ、
がっくりしながら丘を登って帰っていった。
彼女がこどもの頃は、ここでもアクセサリーなんて飛ぶように売れたのだろう。
後ろ姿がもの悲しかった。

翌日の早朝、僕らはハンピ行きのバス乗り場までのオートリクシャーを探していたが、
早朝だということもあって、なかなか見つからなかった。
焦っていると、向こうから爆音でゴキゲンな音楽を流しながら
一台の車が猛スピードで走ってきた。
僕らの前で止まると、運ちゃんはタクシーだから乗ってけという。
僕らはそれに飛び乗ると、車はスゴい勢いで走りだした。
3日間過ごした宿からの細い道を、タクシーはさっそうと走り抜ける。
途中に牛がいようが自転車がいようが、登校中の小学生がいようが、
運ちゃんは巧みなハンドルさばきで切り抜けた。スリル満点だ...!
ズッキュンズッキュンズッキュンズッキュン....!
窓を全開にして、朝から爆音でディープなゴアトランスをかけながら、
時速80kmでゴアの道を走る。
オーディオも改造してあるらしく、スゴくイイ音だ。
登ったばかりの朝日がキラキラとヤシの木のあいだから見え隠れする。
アラビア海からの暖かい朝の風が心地いい。
「サイコーだ!!」
僕はうぉ〜と雄叫びをあげた!まだ早朝だ。
運ちゃんは、ニヤっとうれしそうに笑った。
ゴアは生きている。そう思った。
こんなタクシー世界中でここしかいないだろう。
運ちゃんは、バスを乗り継いで一時間以上かかる道をわずか20分で走った。
20分のサイコーなパーティドライヴだ!
こんなおっちゃんがいる限り、これからもゴアは生き続けるだろう!そうに違いないぜ!

(リョウスケ)

 
 


塗装されていないガタガタの赤土の中を猛スピードで走るローカルバス。
見た目はポンコツなのに結構馬力があるこのバスは、
私たちを乗せて約12時間走り続けました。
昼間の移動は、変わってゆく景色が楽しめるから私はキライではありません。

いくつもの町を通り過ぎ、あたりはサトウキビ畑になりました。
すれ違うトラックも、たくさんのサトウキビやバナナを積んでいます。
そして眩しいくらいの青い空が赤く染まり、辺りはいつの間にか真っ暗になりました。
私たちが向かった先はハンピという村。
ローカルバスの終点のホスペットに到着したときはすでに夜の8時30分でした。
ゴアからの長距離移動に疲れた私たちは、
迷わずオートリクシャーに乗って目的地のハンピに向かいます。

人気の少ない真っ暗な道をどんどん走るオートリクシャー。
そして真っ暗の中、突然私たちの目に大きな物が飛び込み、
その迫力に思わず二人同時に「すごい!」と声が出ました。
石だ!巨大な石がたくさんある!
真っ暗だからはっきりとは分かりませんが、
それはとても大きくてドーンとそこに、静かに、そしていくつもありました。
不思議な村に到着した私たちは、まずホテルを決め、
そして朝になるのを楽しみに眠りました。

朝、ホテルの窓から外を見てみると、昨日よりもさらに驚きました。
周りにあるいくつもの山までもが全て、無数の大きな石でできているのです!
どうしてこんな世界ができたのか?
そんな素朴な疑問を抱きつつ、不思議な世界をとりあえずは散歩してみることにしました。
川ではお椀型の小さな船が浮かんでいて、まるで一寸法師みたい。
そして川の周りも全て、石でできた山。
山の向こうにも、そのまた向こうにも、そしてそのまた向こうにも、
同じように大きな石の山があるのです。
見た事のない世界。まるでたくさんの巨人が遊びでつくって、
途中やりで放置されたような世界。
石の山の間にはさらに、石でできたたくさんの寺院もあります。
崩れてしまっているものも多いけれども、
中には素晴らしく美しい彫刻が刻まれているものもあります。

人が造った石の遺跡と自然が創った石の山が不思議な村「ハンピ」を創り出す。

この美しい石の風景はやはりインド的に言うと「神」が創ったのです。
崩れそうで崩れない石の山は、きっと神のパワーが込められているのでしょう。
そして、この石に囲まれた不思議な村に住む人々は、
生まれたときからこの不思議な風景の中に住み、そのパワーを受けながら生きていきます。
私はこの村の人々と話し、
この村のどの人もが「神様が創った」と口を揃えて言うのを聞くたび、
彼らはこの不思議な石たちをとこの風景を、とても大切にしているのだと感じました。
私たちは、すぐにこの村が好きになりました。
明日は自転車を借りて、ゆっくりとこの不思議の村を周ってみることにします。

(リエ)



 
 
 


すぐ前にいる一人の欧米人が憎らしい。どこの国のヤツだ。
BGMに合わせて小気味よく踊りながら、おいでおいでをして僕らを挑発している。
「お前らも来いよ」と。
ヤツはついさっきまで、僕らと同じ2000ルピーのエリアにいた。
どうやってすぐ前に広がる、まるで楽園のような3000ルピーのエリアに行ったんだろう?
僕らは今、ロジャー・ウォーターのコンサート会場にいる。
ゴアへ行く前に、彼のコンサートがムンバイで近々あることを知って、
僕らは迷わずチケットを買った。
ロジャー・ウォーターは60〜70年代に世界中にその名を知らしめたイギリスのロックバンド『ピンク・フロイド』の中心人物の一人。
伝説的な彼を、しかもこのインドで見ることができるなんてハッキリ言って夢のようだ。
会場は野外コンサートで、ステージ前の3000ルピーのエリアから順に、
2000ルピーのエリア、1000ルピーのエリアと別れていた。
インド人がほとんどだが、もちろん欧米人もたくさんいる。
今たまたま自分がインドのこのムンバイにいて、
ロジャーがコンサートをすることを知りながら行かない欧米人がいるだろうか?
会場内はインド人も欧米人もみんなピンク・フロイドのTシャツを着て、
まるで70年代へタイムスリップしたみたいだ。

僕らは中途半端に2000ルピーのエリアにいる。
一番高い3000ルピーを買おうかと思ったが、3000ルピーは7500円。
いくら何でもやりすぎかと思ったのだ。
ターリ(カレー定食)が150回食べれる。インドでは50日分の食費分だ。
だから大金を払ってここにいるインド人たちは皆、品のイイお金持ちばかり。
もう開演時間を15分すぎている。
前の大きなスクリーンには、古ぼけたラジオとウィスキーが映り、
そして、ゆらゆらと動くタバコの煙が映るのをのを見て、それが動画なんだと気付く。
たまに映像の中に手が映ってラジオのチューニングを回し、その度にBGMが変わる趣向。
2000ルピーから3000ルピーのエリアに入った例の欧米人は、
BGMから流れるオールディズに合わせてふざけた顔で踊りながら、
2000ルピーのエリアから出れない僕らを挑発していた。
なんてヤツだ。しかしウラヤマしい。
周りのインド人たちも「なんてヤツだ!」とその様子に手を叩いて笑いながらも、
ウラヤマしそうな顔をしている。
僕らも同じだ。ヤツを見てると、向こうは楽園に見える。
こんなんだったら3000ルピー払っておけばよかった。なんでケチったんだろう。
彼は親切にも2000ルピーのエリアにいる僕らみんなに自分のチケットを見せて、
自分が柵を飛び越えて入ったことをアピールしている。
みんなそんな彼をヤキモキしながら、無理にウケて笑っていた。
そんなことができるか。このセキュリティがたくさんいるのに。
その時....!
ダダーーン!ダーン!ダーン、ダーダーダー!!
“In The Flesh?”!「The Wall」の一曲目だ!
爆発音と「独裁者」を思わせるギターフレーズとともに超大歓声が周りにおこった!
「壁」は崩れた。
気付くと、ワーとばかりに無数のインド人たちが2000ルピーから3000ルピーのエリアへ
柵を飛び越えて入って行く!
男も女も。まさに「狂気」だ。金も品がイイ悪いも関係ない。
これを近くで見ないで何がライヴだ!
僕も気付いたら柵を乗り越えて3000ルピーのエリアへ入っていた。
柵を乗り越えた時シリモチをついてしまったリエを救い上げると、
僕らもステージ前に走って行った。
ROCKだ。そう思った。
映像もヴィヴィッドな色で「独裁者」をイメージさせる映像。
これがピンク・フロイドか...
気が狂いそうなくらいの大歓声の中、僕らは唖然とそれを見た。

ライヴはドラマチックに進んだ。
映像はまさに映画「The Wall」のようにイメージとストーリーの嵐だった。
もはやひとつの「作品」だった。
「Wish You Were Here」や「Crazy Diamond」など代表的な曲はほとんど演奏し、
「Sheep」では 巨大な風船の「ブタ」も飛んだ。
スピーカーが至るところに設置されていて、音がグルグル回る。
サイコーの音と映像と演奏のショー!
そして、全ての歌詞を僕らに読ませながら演奏した「新曲」 は
「アメリカ」特に「ジョージ・ブッシュ」を糾弾する内容だった。
インド人たちがカッツポーズで内容に激しく賛成していたのが忘れられない。
それにしてもこの中にいたアメリカ人はどう思っただろう?
ショーはそれだけで終わらず、休憩を挟んだ第二部では
「Dark Side of the Moon」の曲をアルバム通りに全て演奏した。
70年代に発売されて、そして今もなお全世界で売れ続けるこのアルバムは、
やはり当時から「未来の音」だったのだろうか?
スゴい体験だった......!

しかし、世界のピンク・フロイドに対する支持は凄まじい。
ビートルズより上なんじゃないだろうか。
会場では、世界一厳粛なムスリム(イスラム教)の女性も少なくなく、
禁煙の会場内でプカ〜と一服しながら、踊っている。
彼女たちはもちろん、ムスリム女性の特徴である黒い布で全身を覆って来ている。
不良ムスリムだ。
ここにいる全員、インド人も欧米人もムスリムも中国人も僕ら日本人も、
全員がガッツポーズを挙げて、大反響の中「Comfortably Numb」でショーは幕を閉じた。
そうなのだ。考えてみればこのコンサートは、多国籍・多宗教の大集会だった。
ここでは、信じられないことに、
アラーの神様も仏陀もシヴァもキリストも超えた「何か」が僕らを統一し、
全員にガッツポーズを挙げさせていたのだ!
それはROCKだった。
とんでもないことかもしれない。
ロジャーの映像は常にシリアスな「平和」を訴えていた。
戦争の写真も見た。
しかし、考え、感じたのは「平和」とは何かということ。
そして「素晴らしい」とは何かということだった。
世界中がピンク・フロイドを聴けば、戦争も無くなるかもしれないと、ふと思った。

それにしてもロジャー・ウォーター単独のコンサートでこれだ。
ピンク・フロイドを70年代に見ることができた人たちが本当にウラヤマしいぞ。

(リョウスケ)



 
   
 


「T(仮名)」はムンバイで人気の高級レストラン。
ムンバイに来て出会ったタケオと「タマには行ってみるか?!」と盛り上がり、
3人で行ったレストランだ。僕らがゴアへ行く前だった。

ここムンバイはヨーロッパのように高級レストランがたくさんある。
「T」は値段もサイコーだが、料理もそれ以上にサイコーだった。
おっちゃんとはその時知り合った、僕らの席のウェイター。
しゃべり方の品も良く、服の着こなしもいい紳士。さすが高級レストランだ。
でもそれ以上にそのおっちゃんの笑顔がステキで、僕らが食い終わった後、
休み時間になったおっちゃんは、僕ら3人を近くのギャラリーをいくつか案内してくれた。
絵が好きで、彼自身も絵を描くと言う。
あまりしゃべる方ではないおっちゃんは、いつもニコニコしながら僕らを案内してくれた。
僕らがゴアから帰った後、また会おうと約束をして別れた。
ゴアから帰った時、僕らは一番におっちゃんのケータイに電話をかけた。
電話での英語は聞き取りにかったらしく、
なんと おっちゃんはタクシーで僕らのホテルまで来てくれた。
会う約束の日が都合悪くなったので、日を改めてほしいといった内容だった。
ボスに言って、30分だけ抜け出してそれだけ伝えに来てくれたらしい。
ウエイターの服のままだった。わざわざありがとう。僕らはもちろん承諾した。
彼は、会う日は家に招待してくれ、彼の絵を見せてくれるついでに
インドのカレーの作り方を教えてくれると約束してくれた。
むむむ、高級レストランの味を僕らもつくれるようになれるか?

約束の日、待ち合わせ場所におっちゃんは来てくれた。
その日は非番の日で休みだったにも関わらず、外国人の僕らが分からないだろうと、
おっちゃんは家から僕らのホテルの近くの駅まで迎えに来てくれ、往復させてしまった。
おっちゃんはイヤな顔ひとつせず、電車の中では自分の妻やこどものことを話してくれた。
彼は最近マイホームを買ったらしく、借家からの引っ越しの最中だと言う。
忙しい時に申し訳ないなと思ったが、おっちゃんのウェルカム精神に負けた。
僕らは着いた駅からオートリクシャーに乗って、団地のひとつに行った。
なるほどマイホームを買うためにガンバッたんだ、と納得したが、同時に拍子抜けもした。
「なんだ、今日僕らは新居には案内されないんだ...」
まぁ気を取り直して中に入ると、彼のこどもが迎えてくれるという僕らの予想を裏切り、
一人の男が出て来た。
彼の弟だと言う。こどもはまだ遊びに行って帰ってないとか。
なるほど引っ越しの最中ということで部屋にはほとんど何もない。
この部屋でどうやってカレーを作れるのだろう?絵はどこにある?
僕らは一枚のこどもの写真を肴に、出された水を飲みつつ、とりとめの無い話をした。
何をしたらいいのか分からない感じの空気だ。
無言になり、ついているテレビの音だけになる時もある。
すると驚いたことに、しだいに頭がフラフラしてくるのに気付いた。ね...ねむい...
「これはおかしい」
リエに日本語で聞くと、リエも同じく頭がフラフラでヤバいと言う。
これは水に何か入れられたか?!睡眠薬か!?
フラフラの頭で、彼の弟だという男に出身地を聞くと「デリー」だと言う。ははは。
電車の中でおっちゃんは、出身は「カジュラホー」だと言った。
出身地の違う兄弟があるか!バカインド人め!
人をハメるならそこまで打ち合わせしとけ!
僕らは、生水かもしれないという心配で少量しか飲んでいなかったのが幸いだった。

なかなか眠らない僕らに痺れを切らしたのか、二人は「5分だけちょっと外に行く」と
ワケの分からんことを言い出したので、そのタイミングで僕らも無理矢理一緒に外に出た。
そして彼らにさよならした。頭はまだフラフラだ。
おっちゃんは計画が失敗したのが悔しかったのか、過ぎ去る僕らに半ば強制的に
「新居」へ行こうと言ったが、僕らは無視してオートリクシャーを拾い、去った。
今回はインド人の負けだぜ、バカおっちゃん...。
しかし僕らは、紳士的で、笑顔が最高にすてきなあの「T」のおっちゃんが、
僕らをハメようとしたのがスゴくショックだった...。
僕らは彼を信じていた。

今回おっちゃんの家に行くにあたって、リエはアクセサリーをひとつ作って出かけた。
おっちゃんの奥さんにプレゼントするためだ。
リエのそんな思いも空しく、持ち帰ることになってしまったアクセサリーだけが
忘れたい今日の出来事を「忘れないように」と言っているみたいに見える。


驚いたことに、おっちゃんは翌日僕らのホテルに電話をかけて来た。
どのツラ下げて?と思ったが、またホテルまで来ると言う。
もう明日の早朝には僕らは空港だし、どんな言い訳をしてくるのかある意味楽しみだった。
しばらくして、ウェイタールックスのまま彼は来た。
おっちゃんは来たとたん「なぜ昨日帰ってしまったんだ」と言う。
「君が睡眠薬入りの水を飲ませたからだろう」とこちらが言っても
そんなものは入れていない!君たちが疲れていたんだろう!君たちの勘違いだ!と言う。
さらに彼は泣きながら、来るはずのお客さんが帰ってしまい家族から軽蔑されたと話した。
僕らのために料理を用意した彼の奥さんは、昨日から彼に口も聞いてもらえないと泣いた。
インドではお客さんは神様にも等しいそうだ。昨日は神様が帰ってしまった。
もしおっちゃんの言うことがホントだったら、僕らはトンだ失礼をしてしまった!
僕は、泣いて話す彼をなだめるためにも、僕らの勘違いだと「仮定」して謝り、
彼と和解し、彼を帰した。
どちらにしても僕らは明日、インドを発つのだ。

僕らの勘違いだったらどんなにいいだろうかと思う。
僕らも昨日何度も、自分たちの用心のしすぎだったのかもしれないのではないかと考えた。
ホントに僕ら二人の勘違いだったのでは?
おっちゃんの言う通り、ホントにただの水で、二人とも偶然クラッときただけなのでは?
おっちゃんの言う通り、ホントは新居に料理が用意されてあって、
あそこでもう少し待った後「ウェルカム〜」って...
おっちゃんの言う通り、料理をみんなで楽しんだ後こどもたちとゲームなんかしたりして...
「ピアノ」が趣味だと言うおっちゃんの演奏を聴いたりして...
あり得ない。
少しでもあり得る話だと思ったあなたは間違いなくハメられる。
だってここはインドだもんね〜!
「あり得る」話だと思った自分たちを、僕らはイヤにはならない。
ただ、少し悲しかった。

(リョウスケ)

 



インド。
ついに離れる時が来たか。
タクシーからいつもの風景が見える。
イヤでイヤで仕方がない時もあった。
ハラを壊したときは、カレーを全く受けつけなかった。
レストランのメニューにカレーしかないインド。
でももうカレーは食べれないのか...
ウマかったカレー...
思えばインドは最悪の国だった。しかし素晴らしい国だった。
ゴミダメのように汚くて、人々はウソつきばかり。100%全員ウソツキ。
いろんなヤツに会って、いろんな目にもあった。夫婦そろってゲリもした。
だけども、インドには一言では言えない何か素晴らしいものが確かにあった。
だから僕らは3ヶ月以上もいた。
息を飲むような風景なのか、遺跡か、千差万別な人々なのか、カレーの後のチャイなのか...
何が素晴らしかったのか、ハッキリとわからない。全部かもしれない。

インドは長く旅すればするほど、精神的な旅が出来るところだと思う。
インドとは何か。今までフツーに暮らしてきた「自分」とは何か。
大貧民から大富豪、天使のような人から悪徳詐欺師、
超アナログな世界から超ハイテクな世界、ここでは全てがハッキリ見える。
そしてそれらのものに戸惑いながらも対応し考え行動する自分の中にも、光と闇を見る。
高校生たちがピカピカの靴を履いて、
100ルピーのマクドナルドを食いながらipodで遊んでるかと思えば、
外ではガリガリに痩せ、ボロボロの布切れをまとったたリクシャーのおっちゃんたちが、
10ルピーの定食を食うために今日もリクシャーを必死にこいでいる。
その横ではこどもたちが1ルピーをくれとせがむ。
これがどこへ行っても毎日の日常風景。
毎日その風景の中、僕は何を考えたか。
暴動が起きてもおかしくないくらいの歴然とした所得格差だが、
だけど不思議なことに、この国はそれでウマくまわっている。
生まれた時から身分を定められる「カースト」という身分制度は絶対なのだ。
運命なのだ。
運命によって定められたカーストが、何よりも重要なのだ。
誰も運命に逆らわず、納得して文句を言わずに自分の人生を必死に生きている。
そう、彼らは間違いなく「生きて」いた。
つべこべ言わず、必死に、でも気楽に楽しく生きていた。
足が無くても手が無くても、必死で生きていた。
みんな生きていた。
インドには、矛盾や相反するもの全てを受け入れる器の大きさというか
懐の深さのようなものを感じる。
すべてにおいて、何が「よい」で何が「ダメ」というのはない。
この国では、全てが「よい」し、全てが「ダメ」だと言える。
まるでこの世界のように。

会う旅人と話し、また考える。
ここムンバイで出会った日本人のやつらを思い出す。
まだ僕らがムンバイに着いたばかりの時、日本人の4人に出会った。
ゴアで1ヶ月以上過ごしたエーサクとマサ、
6ヶ月近くインドを旅しているタケオ、そして着いたばかりのヨーヘイ。
リエと僕、6人でメシを食って飲んだのは一日だけだったが、
僕らは不思議とテンションが合った。
歳がそんなに離れていなかったせいかもしれない。
だけど、インドを同じ日本人として見て、感じて、考えたことを共有できたからだと思う。
僕は彼らから学ぶことが多かった。
ヨーヘイはそんな僕らを見ながら、バナラシへと旅立って行った。

こんなに汚くて、人々はウザくて、ウソつきで、泥棒はいるし、
すぐお金をダマし捕ろうとするし、空気は汚いし、
リクシャーは行きたいところに連れて行こうとしないし、牛はいるし、
そこら中にウンコは落ちてるし....
インドは、イヤなことを言い出したらキリがないくらい。
だけど、大好きだ。
そしてもう一度必ず戻って来たいと強く思う。
インドに一度行った人は、
最悪でもう二度と行きたくない、という人と
サイコーだったからまた何度でも行きたい、という極端な二つの意見に分かれる
というのは有名な話だが、僕らは前者ではない。
(さらに好きになると、インド大好き「インド病」になるらしいが...)
確かに、僕らは初めてコルカタに着いたときは「こんなとこもうイヤだ」と
たったの二日でダージリンに移動してネパールまで逃げ込んだが、
またインドに戻って、ドップリじっくりインドを周ってみるにつれ 、
明らかに僕ら二人とも、日本では全く考えもしなかったし感じもしなかったことを
考え、感じ、そして共有した。いろんな人とも共有できたと思う。

とりあえず今回行けなかった南インドも含め、必ずもう一度戻ってきたいと思う。
だけど、しばらくはいいや.....
アディオス、インド...
そして僕らは「世界三大ウザい人々」のいるインドを終え、
もう一つの「エジプト人」に会いに飛ぶ。

(リョウスケ)


 



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